勘違い


 ……戻らなかった。
 和馬の顔から払い落とされ、頭上に迫りくるミツコの靴から逃げ惑い、ヒューイに裏庭の水飲み場まで連れてきてもらって水分を補給しても、私は依然カエルのままだった。
 蛇口にゆがんで映る自分の姿を見て、がっくりと肩を落とす。やっぱりね、という気持ちもあった。
 思ったとおり、私と和馬はただの良いお友達だった。くそう、あのヒキガエルめ。なーにが「人間というものは気になる異性には素直になれんこともある」よ。
 ……ちょっとだけその気になっちゃったじゃないよ。

 蛇口から垂れる水滴が頭をうつ。冷たくて気持ちいい。ヒューイも後ろ足で立ちあがって別の蛇口を舐めている。
 ごめんね。私が人間だったら蛇口をひねって水を飲ませてあげられるのに。

 空は優しいオレンジ色に染まっていた。校舎の中から、じゃーな、バイバーイ、と明るい声が聞こえる。
 あの子達は今から家に帰るんだ。ご飯食べて宿題してお風呂入って。
 健康で文化的な最低限度の生活を保障されるんだ。日本国憲法でいうところの生存権ってやつよ。
 水滴がカエル顔を湿らせる。

 私は帰れるのだろうか? 人間の姿で。

 私に好きな人がいればよかったのに。こんな形で「恋人」が欲しくなるなんて思ってもみなかった。
 ヒューイが、元気出して、と言うように私の背中をつつく。

「ケロ……」
 ありがと、ヒューイ。
 これ以上ここにいても仕方がない。もう一度しっかり体を湿らせ、ヒューイの鼻先にしがみついた。
 とにかく、今は池の主のところに戻ろう。他に何か元に戻る方法があるとすれば、知ってるのはあいつしかいない。


「知らんな」
「……」
 そ、即答? もうちょっと考えてくれてもいいんじゃない?
「しかし我輩は知らんのだ。それ以外の方法は聞いたことがない。オズの魔法使いにでも頼むのじゃな」
 無責任なこと言わないでよ! それともオズの魔法使いを紹介してくれるっていうの?
「おぬしはオズの魔法使いが本当にいると思っとるのか?」
 池の主は鼻先で笑った。このボケガエル! ムカツク! 私は苛立ちも隠さず抗議した。
「ケロケコケコ!」
 私が元に戻らなかったらアンタの祠だって立て直せないのよ。いいの?

「祠か。あれはもういい」

 な、なにいっ?!

「壊れた祠を一日中眺めていたら吹っ切れてしもうた。もういいのじゃ。祀られていたのも過去のこと……かつての栄華の残骸に固執するなど、醜いことじゃ……」
 そういって池の主は遠い目をした。そのいずまいは寂しげで、しかし不思議と風格を感じさせるものだった。
 
 ……私はどうなるのよ。
「おぬしも諦めろ」
「ゲロ!?」
 それは嫌だってば!
 しかし、池の主は悟ったような目で私を見つめた。
「もはや呪いを解く方法はない。我輩にはどうすることもできんし、呪いを解いてくれそうな知り合いもおらん。諦めるしかないのじゃ」

 軽い調子ではなかった。池の主の目は本気だった。
 どう反応していいかわからなくて、しばらく呆気にとられていた。

 そして、『カエルの身で生きる』ということが急に現実的なものとなって私を激しく揺さぶった。

 諦めるしかない。
 呪いは解けない。
 元に戻れない。
 家にも帰れない。
 頭の中で、池の主の一言一言がグルグルと渦を巻いていた。

 池の主を恨む気すら起きない。
 何も考えられなくなり、ただただ地面を見つめた。
 ヒューイがそっと歩み寄って私の隣に伏せる。
「ケロ……」
 ごめんね。ヒューイも頑張ってくれたけど、ダメなんだって。
 本気で泣きたかった。でも泣けない。そうか、カエルは泣かないのだ。泣くことすらできなくなってしまったのだ。
 いたたまれなくなって伏せたヒューイの鼻づらに向き合った。
 ヒューイ、今までありがとう。とりあえずあんただけでも家に帰りなよ。お腹すいてるでしょ。もう夕飯の時間だもん。

 でも、家に帰っても、たまには遊びに来てね。

 ヒューイがなんともいえず悲しい目をした。
 そしていきなり、ぐいと口を押し付けた
 
 ――瞬間、

 ストロボを焚いたような光が視界を覆った。

「……あれっ?」

 あごのすぐ下にあった地面が急に遠くなった。
 ヒューイが目をみはっている。
 おそるおそる自分の手を見てみる。

 人間の手だった。見慣れた、そして懐かしい手があった。ちゃんと服も着ている。片方の靴だけは壊れた祠の横に転がったままだ。

「も、戻ったの? え? なんで?」
 ヒューイがワオワオと声高く鳴き、躍り上がって私の周りを跳びはねる。
「ゲロロオ〜……」
 振り返ると池の主がうめいていた。
 耳から入るのはヒキガエルの鳴き声にすぎないが、何を言っているかは不思議と理解できた。
「相手が人間でなくても良かったとは、我輩、初耳じゃ。呪いの規則を勘違いしておったようじゃのう」

 そう、ヒューイと私は『ペットと飼い主として』ではあったが、確かに『深く愛しあって』いたのだった。

 人間に戻った姿を見ているうちに実感が沸いてくる。ああ、この懐かしい髪の毛! 湿ってない肌!
「ヒューイ! あんたって最高!」
 思わず歓声を上げて抱きついた腕の中で、ヒューイが嬉しそうにフンフンと鼻を鳴らす。
「やれやれ。まったくエラい遠回りをしたもんじゃわい」
「ほんとよ! でも気分良い! 池の主、あんたの祠もやっぱり作ってあげる!」
 ヒキガエルはニヤリと笑った。
「別に我輩はどっちでもよいが……やはり作ってもらうか。記念にな」

 私は元に戻れた嬉しさのあまり、カエルの時は出せなかったおたけびを上げながらヒキガエルを手に踊った。
 ヒューイは満足そうに尻尾を振って私にじゃれつくばかりだった。

 近道で通りがかった和馬が踊り狂う私に気付いて呆然としていたけど――ま、いっか!





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